厩戸

技術・思想・ことばをメインに執筆する。

そういえばTwitterってミニブログだった

最近トーマスガジェマガ(下記リンク)をよく見ているんですけど、ブログって良いアウトプットの場になることにようやく気づいた。

 

なんかずっと哲学的なことを書いていたが、あれは良いとは思うんだがたまにで良いかなという感じ。

定期的に短いブログでもいいので自分の気づきを落とすというイメージでブログ書けばいいやとか思いました。

全員の努力が報われるとは限らない

天は人の上に人を造らず。果たして本当だろうか。

 

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世界全体で人種・出自などに関係せず成功できる状況が非常に高く評価され、それを実現しようと様々なことが行われている。

 

女性、性的マイノリティー少数民族、障害者。

この世の中には多数の被差別者が存在し、その権利を保護すべく様々な形態で活動が行われている。

 

その活動理念は崇高なものであるし、その活動をすべきでないということを言うつもりは毛頭ない。

しかし、その後、つまり彼らが多数派の方々と同じ権利を持つとどのようなことが起きるのかまで思慮してそれらの活動に参与している人はどれほどいるのだろうか。

そんなことを考えてこの記事を執筆している。

 

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私は日本国に日本人として、男性として、ヘテロセクシュアルとして、健常者として生まれた。

多数派だ。

少数派と呼ばれる要素を今ひとつ持ち合わせていない。

 

だから正当に努力すればそれは正当に評価されるし、成功だってできる。

恋愛も何不自由なくできるし、仕事も何不自由なくできる。

 

 

故に向上心は自然と芽生えるし、将来に希望を持ちながら現在の暮らしを謳歌することができる。

 

(執筆途中)

社会不適合者にも生きる権利はあるが他の人と同様に扱われることはない

会話しているときに相手と目を全く合わせず、キョロキョロと虚無を見つめて話している。

このような挙動は一般的に良しとされておらず、たとえ話の内容に問題がないとしても、しばしば指摘されたり矯正されたりすることがあります。

私にも喋っている途中に手が忙しく動き回るという癖が未だにあります。
思えば物心付いたときから人前で話すと、緊張からか手を忙しく動かしてみたり左右に揺れてみたりしています。
この前動画撮影をしたときも、左右に揺れている自分を見て「ああ、またやってしまった」と思ったばかりです。

多少の程度の差はあれど、私と同様にある種の生きづらさを自覚し、葛藤する方もおられるかと思います。
このエントリでは私がそういった方々をどう捉えるかについてつらつらと書き綴ろうかと思います。

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まず、大前提として人はある人の見た目や挙動からその人の印象を決めるという悲しい事実があります。
現に有名な方々の多くはある程度の容姿と体型、社会的に受け入れられる立ち振舞いをしているはずです。
私もメガネからコンタクトにし、容姿をある程度気にするようにしてから明らかに周囲の人の反応が変わったと感じています。

社会不適合者が必ずしも成功できないかと言うと、因果関係が逆なので必ずしもそうだと言えません。
しかし、実際問題、肥えているかつ不潔である方であったり、人と目を合わせて会話できない方が成功されるかと問われれば、成功しないだろうと答えるのが妥当かと思います。

さて、それでは不潔な方や他人と『普通の』コミュニケーションが取れない方は差別されているのでしょうか?

個人的な答えは、「はい、差別されています」となるでしょう。
人種差別など、俗に言う差別に比べ、ずっと穏やかにですが。

学校を例に挙げると、容姿が悪ければいじめられ、コミュニケーションが苦手であれば省かれる可能性が高くなります。
たとえ事情があろうと関係ありません。
他人にその事情を伝える機会もなかなか与えられません。

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逆にコミュニケーション能力が高かったり、容姿が整っていたりするとそれだけで何かと優遇されることがあります。
省かれたりいじめられたりする側の人間からしたらそれらの心配が皆無というだけで相対的な優位性を持ちます。

私は中学の頃は典型的な陰気な性格で、友達もあまりおらず少しいじめのようなものにもあっていました。
高校に入ってから部活や私生活で大きな変化があったので、こういったことで苦い思いをすることはなくなりましたが、他人と同等のステージに立つために、人がしなくていい努力をする必要があるのが何かムカつくんです。
でも、そうしないと、逆にアンフェアなんですよね。

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個人的には様々な事情があると思いますが、コミュニケーション能力にしろ外見にしろ、高めると終わりがないものは全人類が気を使うべきだと考えています。
健常者の傲慢かもしれませんが、そこに文句垂れたって何も変わらないので。

また、これは日本的な考え方かもしれませんが、他人が努力して得た評価を努力せずして得ようとするのは烏滸がましい気がします。
よく考えたら、顔や骨格はともかく、性格やコミュニケーション能力は誰もが始めから持っているわけではなく、今までの経験や指導などを通して身につけたものであると考えるのが順当です。
なので健常者である限り、可能なことはやっておいてから文句垂れたりするのが良いと思います。
清潔感のない人が何か発信したところでなかなか聞いてもらえませんしね。



そんなことを考えながら面接練習をしたり眉毛を整えてたりしてました。
ムカつきますがこれが一番フェアなんだと思います。
本当にムカつきますが。

世界の解像度が高いほど人生が楽しいというのは一般的ではないらしい

馬 (zhu2qian1) です。

表題回収は早くする派なのでいきなり本題に入りますが、
世界の解像度は知識量で変わります。
世界の解像度は高ければ高いほど楽しいし、人生で得することが多くあります。
なので学習・勉強しましょう…というのがこの記事の趣旨です。

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ある物体を見て何を想起するか、ある現象をどう解釈・評価するか。
これらの行動は世界への向き合い方や、自らの持つ知識によって制限されることがあります。


僕は割と好奇心が強い方で、情報工学、工学、生理学、心理学、言語学などを手広く学ぶことが出来ました。
割と自由にやりたいことをやらせてもらえた環境に感謝ですね。

これらを学べたおかげか、「世界の解像度」はだいぶ高まっていると思います。
まだまだ勉強することはたくさんありますが。

して、なぜこのタイミングで身の上話をしたかと言うと、世の中の大半の人が世界の解像度を気にせずに生きていると気付いたからです。
就活の準備で自己分析などで自分の黒歴史を発掘する機会があったのですが、色々話していると大抵の人に変だとかすごいだとか言われます。
わけがわからないよ。

「変な」という言葉に限らず、形容詞はその性質上多くが相対的なものなので、「変な」友達しかいない僕は自分も「変」だと気づけませんでした。
やれ他己分析だの就活エージェントとの相談だの面接だので他人と話しているうちに、自分が如何に特異な存在であるか気付いたのです。
(メタ的に考えてケツを叩いて頑張らせているだけか、そう言うと喜ぶと思って言われているのでしょうが)

しかし自分でも自分が変な存在だと薄々勘付いていて、故に変な(いわゆる少数派の)友達しか作れなかったのかな、とか思っています。

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本題の方に話を寄せますが、僕の周りの多数派の方々は消費活動が大好きであった印象を受けます。
芸能人、流行のドラマ・映画・音楽とかの知識は、多数派になるために必須だったような気がします。

一方でプログラミングや語学など、勉強が絡むととたんにプレイヤーが少なくなります。
学校のレベルとかもあるんでしょうけどね。

人は良くも悪くも環境に左右される生物だと個人的に考えているので、そこで自分の好きなことを貫き通せたのは個人的に誇れることの一つです。
友人や部活に感謝しかない。

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ここから本題です。
上記2パラグラフ(?)(ブログのお作法分からん)は書き殴りです。
読んだらどんな人間がこの記事を書いているのかちょっと分かると思います。
傲慢な馬です。

冒頭で話した世界の解像度の話です。

世界の解像度は知識で変わるということに関して、これは自明かと思いますが一応説明をば。
要するに、背景知識や俯瞰的な視点を持っていると一つの情報から推測、あるいは理解できることが広がるよ~ってことです。
あえて抽象的な話しかしませんが、例えば一つの報道から仮にそれに関わっている企業やスポンサー、報道のタイミングなどの情報を持っているとその報道のターゲットや狙っている効果などが読めて楽しいということです。

これを「別にそんなん楽しくねーじゃん」と切り捨てるのは個人の自由ですが、そう考えるのであれば、こういったことを楽しいと考える変な人間がいることを考慮してください。
そして、それは絶対に口に出さないでください。マジで誰も得しないので。


ここまでこの書き殴りを読んでいれば世界の解像度が上がると得するということもなんとなく分かると思います。
俗な表現をすると、賢いと得するよ~ってことです。まあ自明ですよね。

実生活では、例えば対話している相手の反応や言動から気分を読み取ることができたり、人を喜ばせるのが簡単になったりします。
得をするので、自分自身の行動を変えるきっかけにもなり得ます。

これらは日常的に色々なことに興味を持って自主的に学習・勉強することで身に付くと思います。
これを新たに習慣づけるのがこれまためんどいし大変なんですが。

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もう書くのがめんどくなった疲れたので締めます。

まとめ

  • 勉強しておけば得する

今週中に多数派の行動について考えようかな。


駄文・長文失礼いたしました。

馬 (zhu2qian1)

Blogを始めたワケ

Twitterで書き綴るのがもったいないと感ぜられる自らの思考を書き留め、後に振り返ることを容易にするためBlogを書き始めることとした。

何日続くのかは分からないし、定期的に書けるのかもわからない。

Twitterで事足りてるし、このBlogも深夜3:30に突発的に始めたものだ。

しかし、自分の思考を垂れ流す便所みたいなところは断続的に失われつつある自分の思考を刻むために必要だと強く感じている。

このBlogも10年ほど前の中学生の頃に書き始めたBlogの如く『ハズカシー』などと思いつつ消したりするのだろう。

ただ、そのBlogは現在の自省における大きな材料になっていた。

このBlogも同様に10年後の自分に向けて書くというスタンスでもいいのかもな〜