厩戸

技術・思想・ことばをメインに執筆する。

社会不適合者にも生きる権利はあるが他の人と同様に扱われることはない

会話しているときに相手と目を全く合わせず、キョロキョロと虚無を見つめて話している。

このような挙動は一般的に良しとされておらず、たとえ話の内容に問題がないとしても、しばしば指摘されたり矯正されたりすることがあります。

私にも喋っている途中に手が忙しく動き回るという癖が未だにあります。
思えば物心付いたときから人前で話すと、緊張からか手を忙しく動かしてみたり左右に揺れてみたりしています。
この前動画撮影をしたときも、左右に揺れている自分を見て「ああ、またやってしまった」と思ったばかりです。

多少の程度の差はあれど、私と同様にある種の生きづらさを自覚し、葛藤する方もおられるかと思います。
このエントリでは私がそういった方々をどう捉えるかについてつらつらと書き綴ろうかと思います。

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まず、大前提として人はある人の見た目や挙動からその人の印象を決めるという悲しい事実があります。
現に有名な方々の多くはある程度の容姿と体型、社会的に受け入れられる立ち振舞いをしているはずです。
私もメガネからコンタクトにし、容姿をある程度気にするようにしてから明らかに周囲の人の反応が変わったと感じています。

社会不適合者が必ずしも成功できないかと言うと、因果関係が逆なので必ずしもそうだと言えません。
しかし、実際問題、肥えているかつ不潔である方であったり、人と目を合わせて会話できない方が成功されるかと問われれば、成功しないだろうと答えるのが妥当かと思います。

さて、それでは不潔な方や他人と『普通の』コミュニケーションが取れない方は差別されているのでしょうか?

個人的な答えは、「はい、差別されています」となるでしょう。
人種差別など、俗に言う差別に比べ、ずっと穏やかにですが。

学校を例に挙げると、容姿が悪ければいじめられ、コミュニケーションが苦手であれば省かれる可能性が高くなります。
たとえ事情があろうと関係ありません。
他人にその事情を伝える機会もなかなか与えられません。

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逆にコミュニケーション能力が高かったり、容姿が整っていたりするとそれだけで何かと優遇されることがあります。
省かれたりいじめられたりする側の人間からしたらそれらの心配が皆無というだけで相対的な優位性を持ちます。

私は中学の頃は典型的な陰気な性格で、友達もあまりおらず少しいじめのようなものにもあっていました。
高校に入ってから部活や私生活で大きな変化があったので、こういったことで苦い思いをすることはなくなりましたが、他人と同等のステージに立つために、人がしなくていい努力をする必要があるのが何かムカつくんです。
でも、そうしないと、逆にアンフェアなんですよね。

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個人的には様々な事情があると思いますが、コミュニケーション能力にしろ外見にしろ、高めると終わりがないものは全人類が気を使うべきだと考えています。
健常者の傲慢かもしれませんが、そこに文句垂れたって何も変わらないので。

また、これは日本的な考え方かもしれませんが、他人が努力して得た評価を努力せずして得ようとするのは烏滸がましい気がします。
よく考えたら、顔や骨格はともかく、性格やコミュニケーション能力は誰もが始めから持っているわけではなく、今までの経験や指導などを通して身につけたものであると考えるのが順当です。
なので健常者である限り、可能なことはやっておいてから文句垂れたりするのが良いと思います。
清潔感のない人が何か発信したところでなかなか聞いてもらえませんしね。



そんなことを考えながら面接練習をしたり眉毛を整えてたりしてました。
ムカつきますがこれが一番フェアなんだと思います。
本当にムカつきますが。